BACK/ NEXT / INDEX




   セカンド ・ マリアージュ  37


エントランスで鍵を使い、そのままエレベーターに乗ると、史郎が住んでいる部屋の階で降りた。彼女が初めて見るそこは、二人で住んでいたマンションより少し小ぶりで簡素な造りのように思える。
このタイプの家のドアには、彩乃と住むマンションのような新聞受けはなく、頑丈そうな扉がどんと構えているだけだ。
「ここ、だよね」
インターフォンの上のあたりに名字だけの表札がでているが、それだけでは他人の家にこっそり入ろうとしている自分には何だか心許無い気がする。
何度も何度も、それこそしつこいくらいプレートを確認してから、教えられていた暗証番号を打ち込む。そして電子音と共に開錠された軽い衝撃を感じると、ノブに手を掛けてそっとドアを開けた。
「……お邪魔します」
足を踏み入れた玄関は真っ暗で、ガラスから差し込んでくる外の照明が微かに室内を照らしているだけだ。
奏子は息を詰めながら靴を脱ぐと、その光源を頼りに足音を忍ばせて廊下を進んで行く。
まず突き当たりの正面にあるドアを静かに開くと、どうやらそこはリビングのようだった。ドアから顔だけ突き出して頭を巡らせると、その横にカウンタータイプのキッチンがあり、常夜灯の代わりのつもりなのかシンクの上の小さな蛍光灯が点けたままになっている。そのせいで薄ぼんやりとあたりを照らしてはいるものの、そのどちらにも人がいる気配はない。
再びそっとドアを閉め、後ろを振り返ると、廊下に沿って左右に2つずつ入口があるのが見えた。そのうち右側の一つは半分ほど開いていて、そこから中が洗面所であることが見て取れる。どうやらこの部屋の水回りは右側に固まっているみたいだ。
そこで左側の手前にあるドアにあたりを付けた奏子は、その前でごくりと唾を飲みこんだ。
「失礼します」
誰に言うでもない、というより誰にも聞きとれないであろうくらい小さな声でそう断った彼女は、音を立てないようにそっとドアを開く。そこも他の部屋と同じように真っ暗だったが、段々と目が慣れていくにつれて、徐々に中の様子も分かるようになってくる。
ドアの奥にベッドがあり、そこが少し盛り上がっているのが見えたので抜き足差し足で近づいていくと、果たしてそこには薄い夏布団を被って寝ている史郎の姿があった。
「史郎さん?」
反対側を向いている顔を覗き込むと、彼が荒い息をしながら横たわっていた。そっと額に触れると、一瞬彼がびくりとするのを感じたが、それよりも奏子が驚いたのはその尋常ではない熱さだった。
「ちょっと、史郎さん?」
慌ててスイッチを探し、電気を点けてみると、彼は顔を真っ赤にして布団の中で体を震わせている。
「た、大変!」
動転した奏子はその場に自分のカバンを放り出すと、あたふたとベッドの周囲を見回した。
「体温計、体温計、もう、どこにあるのよ?」
手当たり次第にサイドテーブルの引き出しを探すがそれらしきものは見つからない。
「んーもう」
一通り引っ掻き回して目的のものを見つけ出せなかった奏子は、一旦それを諦めて彼の側に戻った。
「史郎さん大丈夫?何か欲しいものある?」
抑えた声で耳元で問いかけると、薄らと目を開けた彼の唇がゆっくり動く。
「……みず、が、欲しい」
「水?お水が飲みたいの?分かった。ちょっと待っていて」
奏子は部屋を飛び出し、そのまま先ほど見たキッチンへと走る。思いついて冷蔵庫を開けてみると、飲みかけの水と、スポーツドリンクのペットボトルが中に入っていた。
それらを掴み寝室に戻ると、先ほどとは逆向きになり、史郎はこちらに顔を向けた格好で横になっていたが、このままでは水を飲ませることは難しい。そこで奏子は彼の背中を支えながら半身を起こした。
「史郎さん?少し起きて」
ぐったりした彼の口元にペットボトルの水を添えて少しずつ口を潤す。最初はうまく口に入らずかなり零していたが、そのうち自分から口を開けるようになったのを見て、奏子は自分が携帯している頭痛薬をカバンから取り出すと彼の口元に持っていった。何とかそれを飲みこんだのを見届けた彼女はほっと胸をなでおろす。
水分を摂り、史郎が少し落ち着いたのを見計らって、奏子は次に必要なものを探しに部屋を出た。行ったのは水を求めて入ったキッチンだ。
「氷枕……なんてあるはずないよね」
彼女はぶつぶつ独り言をつぶやきながらフリーザーを開け、とりあえず氷が作られていることを確認すると、今度はキッチンシンクの下や食器棚の引き出しを開けて使えそうなものを探す。
「あった!」
見つけた厚手のポリ袋を二重にして、その中に氷を詰め込み、口をきつく縛る。そして先ほど見た洗面所からタオルを一、二枚失敬して、それらを持って史郎のいる寝室へと戻った。
「史郎さん、これを外すから、少し頭を上げるわよ」
高熱のためか浅い息をしている史郎にそう囁くと、奏子は彼の頭を持ち上げて枕を外し、代わりに後頭部と首筋にタオルで包んだ氷袋が当たるように敷く。その間も、意識が朦朧としているのか、史郎は彼女になされるがままだった。
それを見た奏子はどうするべきか迷う。体温計がないので何時からどのくらい発熱しているのかが分からないし、本人に聞こうにもこの状態ではそれも難しそうで、こんな状況では下手に救急車を呼ぶこともできなかった。
「ああ、もう。熱取りのシ−トなんてものは……ここにはないわよね、多分」
彼と一緒に暮らしていた時には、それらのものはすべて彼女が買い揃えていた。夫婦であった間に彼が寝込んだことは一度もなく、使ったのは自分だけだったけれど。
コンビニに行けば手に入るものはあるが、近くにあるのか分からない。来がけの道筋で一軒見つけてはいたけれど、歩くとなると少し距離がある。仮にそこまで行くにしても、それまでにできるだけのことをしてから出掛けたかった。

それから奏子は、部屋の隅に脱いだまま固めて置いてあったシャツやパジャマを持って洗面所に行き、それらを洗濯機に入れて回し始めた。その間に物入れと思しき扉を開き、そこからシーツを引っ張り出すとすぐに取り換えられるようにベッドの側に出しておく。そして悪いとは思いつつも、クローゼットを勝手に開けて、彼の下着やパジャマの替えを探し出した。
そこまでしたあたりでベッドの方を見ると、彼は先ほどより心もち呼吸が穏やかになったようだったが、それでもまだ苦しいのか、時折体の向きを変えながら目を閉じている。
寝返りを打ち、ベッドからはみ出した彼の手を取ると、奏子はそっと布団の中に戻そうとした。
「史郎さん?」
眠っていると思っていた彼に、急にその手を掴まれて、彼女は思わずびくりとする。起きているのかと問いかけようとしたが、薄く開いた彼の目はその後すぐに閉じられた。それと共に彼女の手を握っていた彼の手も少しずつ力が抜けていき、最後には布団の上にぽとりと落ちていく。それを再び布団の中に戻しながら、奏子は苦笑いする。
「もう、びっくりさせないで」
そう呟きながら彼の様子を見ていて、彼女はふと思った。
何で私、こんなことしているんだろう。
史郎が自分を本当に認識しているのかは分からない。それに別れた妻に世話を焼かれたところで、彼がそれを喜ぶとは限らなかった。それどころか、いろいろと勝手に引っ掻き回され探られて、後で要らぬお節介だと嫌がられるかもしれないというのに。


それからしばらくして、少し落ち着いてきた彼を置いて、奏子はカバンを持ってマンションを出た。行先は、先ほどここに来る時に前を通った、駅に近い場所にあったコンビニだ。
そこで水やスポーツドリンク、それに冷却シートやレトルトのおかゆなど必要なものを買い、再びマンションに戻ってみると、史郎がベッドの上で半身を起こしてこちらを見ていた。
「どうしたの?寝ていなきゃだめじゃない」
そう言って急いで彼の側に駆け寄ってきた奏子に、彼はふっと小さく息をつく。
「もう帰ったのかと思った」
それを聞いた奏子はその場に立ち止まる。やはり自分はそんなに嫌われているのかとショックを受けたのだ。
「あ、いろいろ勝手にしてごめんなさい。これを片づけたらすぐにお暇しますから……」
コンビニの袋を差出し、辛そうな顔でそう告げる奏子の言葉を遮ると、史郎は大きく首を振る。
「違う。そうじゃない、そうじゃないんだ」
彼は呟くように言うと、まだベッドの側で立ち尽くしている奏子の腕を掴む。そして、病人のどこにそんな力が残っていたのかと思うくらい、強く彼女を引き寄せた。
「し、史郎さん?」
史郎の胸に倒れ込むような格好になった奏子は戸惑いの声を上げたが、それには答えず彼女の顎に手を添えると、彼は強引にその唇に口づけたのだった。




≪BACK / NEXT≫ / この小説TOP へ
HOME






Photo by 7style